アスペルガー症候群である仕事の同僚は、これまでに僕が何度も仕事上の同じ助言を繰り返し言ってあげてもその通りにやってはくれない。かと言って、僕の意見に反対なのかというとそのようでもなく、その時は「はいはい」と素直に聞いてくれているように見える。時には「やってみます」と言う。しかし、やってみてどうだったかというフィードバックは一切ない。見ていると、やろうとしている気配さえもなく、つまり試みようとさえしてくれない。何かを習得する時間が非常に遅く、ようやくそれなりに出来るようになったワンパターンの行動をただ繰り返すだけである。時と場合と状況に応じて違ったやり方を工夫してみるという「はなれわざ」は彼にはできないらしい。つい僕はイライラして「僕の言っていることがわからないなら『わからない』と言ってください」と声を荒げてしまうのであるが、彼は笑っているだけである。「清水がなにか冗談を言っている。何が面白いのかわからないけど、とりあえず、笑っておこう。」
知的障害や自閉症は「発達障害」と言われる。健常者と比べて精神的・心理的機能の発達が滞ったままの状態のことをいう。障害の程度は軽度なものから重度のものまで幅があるため、近年は連続体という概念が導入された自閉症スペクトラムという言葉がよく用いられる。アスペルガー症候群は自閉症スペクトラム症の一つの型であるとされる。
健常者から障害者までのスペクトラムが示されている図をウィキペディアで見つけた。スペクトラムという概念は実に興味深いと僕は思った。もしかしたらこのスペクトラムはもっと大きなスペクトラムのほんの一部ではないかという気がしてきた。つまり「生命」というスペクトラムである。ここの「健常者」と呼ばれるグループに属しているいわゆる「普通の人間」は「生命」という大きなスペクトラムから考えるなら、果たして本当に「健常者」と呼べるのだろうかと僕は思った。地球人類の種としての分類は決して「健常者」と呼べるものではないことは人類が過去に行ってきた(そして現在も進行中の)愚かな行動の数々を見れば明らかである。信じる神が違うと言って異教徒を殺し、解釈が違うと言って異端を殺し、欲望は足ることを知らず、先住民を殺戮して土地を奪い、肌の色の違いで優劣をつけ、奴隷にし、強姦し、拷問し、狂気の限りである。アスペルガーの人の「場の空気を読めない」という障害がまるで無きに等しい問題のように思えてくる。自然生態系の中に息づいている精妙な叡知を知ることができず、それを破壊し続ける人類は「生命」全体から見れば知的障害者以外の何者でもない。
地球に未だ「オープンコンタクト」がもたらされないのには原因がある。地球人類よりも進化した生命体が「地球人とは決して友達にはなりたくないな」と思っているからだ。僕たちはそのことをもっと真剣に考えなければいけないと思う。「発達障害」と言われる人たちが存在する理由は、きっと、人類が早く自らの「出で立ち」に気づいて欲しいという天の計らいがあってのことだろうという気がする。
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