その時僕はさだまさしの「さよならにっぽん」という曲の歌詞の一片を思い出した。
売り物と買い物しかないかのように、、、打算だけで回っているのが世の中なのか?すべてそうなったら世も末だと僕は思う。しかし「それがビジネスだ」とM氏は言う。サービスの対価は必ずいただくのが「ビジネスをすること」であると、この小さなビジネスオーナーは信じているようである。まさに「売り物と買い物しかないかのように。」
僕のビジネスに対するポリシーは少し違う。対価よりも常にプラスアルファでサービスを行いたいと思っている。もちろん貨幣経済で回っている世界ではお金をいただかなくては生きてはいけないけれど、サービスが対価よりも優っているようにいつも心がけたいと思っている。その差がたとえ僅かであったとしても、そのプラスアルファが「天に宝を積むこと」だと僕は思うのである。それでこそ恥じることなく天に顔向けして生きられるというものではないか。たとえ懐に札束を持っていなくとも。
日本型の会社経営というものは本来そういうものだったのではなかろうか。それは会社経営のみならず日本人の生きる姿勢そのものがそうだったように思う。実際、戦後の復興期には皆が対価以上に働いた。だからそれをご覧になられていた天がそれに報いてくださったのである。クリスチャンでもない日本民族はジーザスに教えられるまでもなく「天に宝を積むこと」を実践していたのだ。ところが世界的な風潮からかグローバリズムの影響からか、日本人でさえも最近はとみに打算的になってしまったようだ。さだまさしの「さよならにっぽん」というタイトルは見事にそれを言い当てていると言ってもよかろう。この曲が作られた25年も前にはもうすでにその兆しが見られたのだから、現在に至っては一層ひどいことになっているのかもしれない。
人々は「天に宝を積むこと」をすっかりしなくなり、限られたパイの中から自分で自分の取り分を奪い合うような世界になった。一方、頭のいい人々はサービスの対価として報酬を得る「実体経済」とはまるで別物の「金融システム」という「打ち出の小槌」を発明した。この発明品はサービスの対価以上に利益が見込める不思議なものだ。もう天の報いを受けようなどとは夢にも思っていないようである。この発明品の登場のせいだろうか。この世界に生きる人々の多くが自分の行いの「対価」以上のものを得ようと躍起になっているかのように見える。労働者の労賃をピンハネする経営者なんてまだ序の口であって、都合のいいように決まりごとを作り、うまい具合に利益を吸い取る地方自治体やその上の国家政府もそうかもしれない。さらにその上には国家や世界を自在に操る巨大資本家たちが君臨しているとも言われている。あらゆる特権を貪ろうとそこに群がる数多くの団体や個人たちが生まれてしまうのは、要するに、世界の上層部からしてそうなのだから、下々の者もそれに倣っているという構造になっているからなのだ。そして世界は「目先の損得計算をうまくできる生き方こそ最高の人生なのだ」と人々にしきりに宣伝するのである。
ヨーガの戒律の中に「盗むことなかれ」「貪ることなかれ」というものがある。
「天に宝を積む」と言うと偉そうに聞こえるが、実際、人間が天から受けている恩恵は計り知れないほど膨大である。それと比べたら僕たちの行う「プラスアルファ」なんて天の恩恵のほんの僅かばかりをお返ししているに過ぎない。空気や水、環境、そして他の多くの動植物の生命を事実上無償でいただいて僕たちは生きているのではないか。そこに「感謝」と「報いる心」がなければ、僕たちは天の恩恵を「盗んで」いるに過ぎないのである。あのヨーガの戒律はただ単に他人の所有物を盗んではいけないという社会道徳的なことを言っているではないのだ。ましてや自分が受けるべき対価以上の利益を取ろうと躍起になっているならば、そこにはさらに「貪り」という破戒をも加えていることになる。
「天に宝を積む」こと、つまりは「天の恩恵に一片の感謝をお返しする」その心を失ってしまった人間社会の行く末を僕は危惧してやまない。
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