明らかに世俗の成功を放棄した人生。
僕はブッダのように生きたかったんだ。今更名声やら豪邸やら高級車やらを欲しいとは思わないし、それを持っている人を羨ましいとも感じない。もっともこの世が貨幣経済で動いている以上は生活を支えるだけのマネーは必要であろうが、それをなんとか確保できれば、あとは畑を耕しながら創作活動をして余生を送りたいものだと思っている。生活するだけのために、人間性を犠牲にしてまで働かなければならない社会のシステムは明らかに間違っている。しかし、大方の人間はそんな社会の犠牲者となっているのかもしれない。そういう人たちの犠牲の上に、もし、僕が億万長者になったとしてもそれは誇らしいことだろうか。そうではない。だから僕はこの生では人々と苦労を分かちあえる立場を選んだのだと思う。
我が家の家系はかつて豪農あるいは豪商と呼ばれる家系であったと聞いている。だから自分も過去生のどこかで世俗の成功を手にした人生を生きたに違いないと思っている。その時の記憶が魂のどこかに刻まれているのだ。しかし、その世俗の富や権力は誰かの犠牲や搾取の上に成り立っていたことを僕の魂は理解した。世俗の富は魂を貧困にするのである。日本人は歴史的な教訓からそれを理解していたのだと思う。八紘一宇の精神で人類の共生共栄を目指したかつての日本民族は、確かに正しい道を歩んでいたのだ。
人の人生はコインの裏表である。表の派手な人生を生きたとしても、裏の地味な人生を生きたとしても、基本的にコインの価値は変わらない。成功者になるか、日の目を見ない者で終わるのかのその違いは、ただコインの表が出たか裏が出たかの違いでしかないのだ。しかし、本当に目覚めた人は与えられた人生の中で、そのコインの価値を高める道を模索するだろう。コインとはつまり魂のことなのだから。
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