老いてきぼり

すべて子供のために生きてきたわけではないけれども、子供のために犠牲にしてきたものは確かにあった。一番多く失ったものといえば、、、「アタマの髪の毛だろうな」と、撮られた写真に映る自分の姿を見るたびにいつもそう思う。

時間とともに目覚ましいばかりに成長する子供たちと、時間ばかりが過ぎても全く成長できないどころか、老いの憂き目を目の当たりにする自分との対比に、愕然とすると同時に悲しみを禁じ得ないでいる。これがいわゆるエンプティネスト症候群というやつかと思ってみたりする。自分にもこんな日が来るようになろうとは、かつては夢にも思っていなかった。鳥はヒナが成長して巣から飛び去ってしまうと、家庭という形を失い、夫婦も離れ離れになって、また、それぞれの個に戻っていくのだという。そして、どこかの歌の歌詞にあったように、あとは、ひとりぼっちの幸せと自由を楽しんで、時の流れに身を任せるだけである。

人間の世界も、最近は子供が巣立った後の熟年離婚とやらが増えてきているらしい。鳥のように一人の「個」に戻って、自分に与えられた時間を満喫するのもいいかもしれない。ひとりぼっちの幸せを楽しめる人ならそういう余生も「あり」だろうが、それにしても人の場合は余生が長すぎる。それゆえ「老い」という哀しみを背負わなければならなくなった。さて、それでは自分はこれからどうするのかと、最近は頻繁に考えるようになった。これまでは子供と家庭のために犠牲になり、これからは老いた母のために犠牲にならなければならないとすれば、自分は果たして自分の人生を生きてきたのだろうかと疑問さえ湧いて来る。なまじ能力があってチャレンジ精神が備わっておったばかりに、難しいことでも嫌いなことでも挑戦して、それなりに克服してきてしまったおかげで、自分に与えられた本来の天分を生かすことができなかったのではないかと思ったりもする。

考えてみれば僕はずっと求道者であった。しかし最後まで求道者で終わってしまうのであれば、この人生は「成功」と言えるのだろうか。もっと早い時期に自分の天分を見極めて、それを磨いてゆくことに努力と時間を費やせたならば、もっと違ったもっと輝かしい人生になっていたに違いないと思ってしまう。しかし、現実はそれが叶わなかった。依然として求道者のままなのである。

「さて、これから僕はどうしようか。」


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