宗教は雲

宗教は雲

インディアン水車なるものをご存知だろうか。

上する鮭を捕獲する水車なのだが、その仕組みが本当に良くできている。水力で回る水車にはカゴがつけられていて、水の流れに逆らって泳ぐ鮭をいとも簡単にすくい取って生け簀の方へと流してゆく。労せずに次々と鮭が捕獲できる様子は見ていて面白いほどであるが、鮭の立場を思えば本当に気の毒だ。持てる力を振り絞って少しでも上流へと進もうとする努力を逆手に取られて、結局は人間の手に落ちてしまうのだから。

僕はいつしかこのインディアン水車を「宗教」みたいなものだなあと思うようになった。

人には誰しも向上心というものがある。昨日よりも今日、今日よりも明日と、人はより良い「自分」になれるように努力をしているものだ。そこにはもちろん個人差や程度の差こそあれ、誰もが進歩したい前進したいと願っているに違いない。そんな人間の「向上心」を巧みに利用して「教団」という「生け簀」へと誘い込んでゆくやり方がインディアン水車にそっくりだと思ったのである。停滞している鮭が水車に捉えられないように、霊的に停滞している人が宗教の餌食になることはない。宗教に捉えられてしまう人々は霊的な成長を今まさに遂げつつある向上心に満ちた魂たちなのである。

「生け簀」に入れられた魂たちは主人にこう告げられる。

「おめでとう。あなたたちはついに人生のゴールにたどり着いたのです。ここは幸福への入り口です。教えを守ってしっかりと頑張りなさい。」

魂たちは餌を与えられドグマを教え込まれる。自分たちが力を尽くして川を遡上してきた目的が、あたかもここにたどり着くことにあったかのように錯覚させられてしまう。霊性進化という川はまだまだはるか上流まで続いているというのに。

の進化は果てしない。
たとえその速度が呆れるほど緩慢であったとしても、魂たちは進化の方向へ進むことを宿命づけられている。あたかも地球の重力を克服して宇宙へ飛び立ちたい冒険家のように、何度でも何度でも繰り返し繰り返し成層圏を目指す。そこには完全なる自由が待っているから。魂たちは成長したレベルに応じた高みにまで上昇することができるが、「完全なる自由」を獲得するにはさらなる挑戦を繰り返す必要がある。肉体の一生など、壮大な魂の旅のプロセスと比べればほんの一瞬である。あまりにも儚く過ぎ去ってしまう。だから魂の転生は必然なのである。

魂の辿る路程は地上から宇宙へと抜ける道筋に似ている。

対流圏では穏やかな日ばかりとは限らない。疾風迅雷、風雪風雨、思ったように舵が切れないことばかりかもしれない。それでも勇敢な魂たちは、その困難を幾度となく乗り越えて、ついには成層圏に至るのである。しかし、そこに至る前に魂たちを待ち構えている最後の関門がある。宗教という名の雲である。

雲はある程度高いところに浮かんでいるが、よく見ると様々な種類があり、その高さも微妙に違っているようだ。雲の中は、魂たちにとって長い旅の疲れを癒してくれる安息所のようでもある。あまりにも居心地がいいので長い間そこにとどまる魂たちが後を絶たない。その場所を自分たちの旅のゴールだと信じてしまう者も数多く現れる。そして悪いことに自分の属する雲こそが最高最上だと思い込んでしまうのだ。

雲の住人たちはその領域を広げることに熱心になる。しかし、その「熱狂」が数々の悲劇の原因となったことは人類歴史を振り返ってみればよくわかるだろう。なぜ隣の雲ばかりが気になるのか。なぜ雲を突き抜けてもっと高みを目指そうとはしないのか。誰もがまだ重力のくびきから解き放たれてはいないというのに。

よくよく調べて見ると大気圏には4層があって、地表に近い順から対流圏、成層圏、中間圏、熱圏となるそうだ。高度 400km あたりを飛んでいるスペースシャトルや国際宇宙ステーションでさえ、まだ大気圏内ということになる。宇宙といってもまだ地球の重力から自由になっていないのだ。大気圏の外側には高度 10,000km まで外気圏、そしてその先には果てしない宇宙空間が広がっている。

魂の旅も、たぶん、輪廻転生という重力から解き放たれたとしても、まだまだ先があるのかもしれない。そう考えると雲と雲との争いなんてなんとも馬鹿げたことではないか。


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