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2020年12月31日。
ウェストバージニアのローカルニュースはチャールストンで起こった凄惨なニュースを伝えていた。26歳の息子が同居していた両親を斧で殺害したのだ。犠牲となったのは、カンバラ夫妻であった。報道によれば、息子には精神障害があり、家庭内のトラブルも数年前から報告されていたと言う。精神障害が親を殺す理由にはなるまい。もしそうならば、全ての精神障害児を持つ親御さんたちは子供に殺されるリスクが一般よりも高いということになる。もちろんそんなことはないであろう。僕はこの事件に祝福家庭の抱える闇を見たような気がした。祝福家庭の闇。この言葉に含まれる強烈なアイロニーはたぶん当事者でないと理解はできまい。
どんな家庭にも他人に言えない問題を一つや二つは抱えているものだ。
しかし、どうしてそれらを「問題」と捉えるのだろうか。それは「家庭」とはこうあるべきという「型」(あるいは「プロトタイプ」)というものが世間一般の集合意識の中に存在しているからで、その許容範囲を外れたものを「問題」とみなすからである。「問題」と言うとひどくネガティブに聞こえるかもしれないが、英語で言う「 issue 」に当たり、その程度も些細なものから深刻なものまでいろいろある。もしも、ある時、ある「 issue 」が持ち上がったとすると、人はその問題を解決しようと努力をする。問題の大部分は家庭の中あるいは個人の中で解決できるものかもしれない。問題によっては、その道の専門家に助けを求めることも可能だろう。そうやって常に issue free の状態を保っていければ、それが一番良いに決まっている。しかし、問題が「心」の領域にまで及んでくると、その解決策がわからなくなってしまう場合が多い。そして人はその問題を抱え込んだまま生きてゆくことになるのである。
忘却の地下牢
人間の潜在意識の中には地下牢のような倉庫があって、どうにもできない問題は当面そこに放り込んでおくことができる。それはいわばバッファーゾーンみたいなもので、自己防衛のためには必要な機能だと思われる。そうしておけば、少なくとも表面上は、世間一般のプロトタイプに違反することなく社会生活を送ることができるわけだ。しかし、できればバッファーゾーンは定期的にクリアーにしておくことが望ましいわけで、もし、その「地下牢」が収容限界を超えてしまったら大変な「災害」が発生することにもなりかねない。閉じ込められた「地下牢」の囚人たちは、ある日突然、徒党を組んでモンスター化することだってありうるのだ。
おそらく誰もがその地下牢に何も溜め込みたくはないはずだ。しかし現代人は、多かれ少なかれ、そこに何かをしまいこんでいる可能性が高いらしい。そして、そこに含まれる多くのものは、子供時代の遺物である。
幼い子供にとって様々な問題を解決してくれる専門家は親しかいない。特に母親に対する信頼は絶対である。子供は100%の愛情で母親を愛し、100%の愛情が母親から返ってくることを信じて疑わない。ところがもし50%の愛情しか母親から返って来なかった場合はどうだろう。25%だったら?あるいは0%だったら?子供の満たされない心の葛藤は、解決できない問題として、潜在意識の地下倉庫に貯め込まれることになる。母親も人間である以上、様々な要因で子供に100%の愛情を注げない場合も生じてくるだろう。現代の社会構造が、あらゆる面で母親たちの心のゆとりを奪っていることも問題なのかもしれない。
体裁を繕うために子供が犠牲なるのは悲しいことである。社会が許容する「型」に収まるための努力は確かに必要であるが、そのために「人間性」までも犠牲にしてしまったら、親としての勤めも失われることになる。特に難しいケースは個人や家庭に複数の「型」が突きつけられている場合である。信仰やイデオロギー、民族的伝統などが家庭内に複数のスタンダードを作ってしまい、それらの整合性がうまくいかないと家族の心理的混乱は避けられなくなる。異なるプロトタイプからの要求はストレスとなって個人と家庭を危機に追い込むのである。そして、最もその影響を被るのが成長期にある子供である。
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