「どうして僕はいつも孤独なのだろうか」と時々自分の人生を振り返っては考える。しかし、それはいつも悲痛な思いからではない。孤独でいる方が気が休まるから、自然とそちらの選択肢を選び続けてきただけなのかもしれない。あるいは「人とは孤独なものなのだ」という開き直りが人生のある時点にあって、以来、あえて誰かと群れる努力をしなくなったのかもしれない。

思えば幼少の頃から僕は孤独だった。家族の愛を受けなかった孤児の境涯から比べれば遠く及ばぬ贅沢かもしれないが、家族がいても孤独になる場合だってあるのだ。アンデルセン童話「みにくいアヒルの子」のように、アヒルの家族の中で生まれた白鳥が孤独なようにである。人の本質は魂なので、魂のレベルが似た者同士が集まれば友にも家族にもなれるだろうが、そうでない場合は誰かが「孤独」を感じることは避けられない。

少年時代、僕が孤独だった原因の一つに野球が下手だったということがある。球がうまく投げられなかったのだ。その原因は親が僕の左利きを矯正しようとしたことにあった。昭和の時代、日本の国民的スポーツと言えば野球であり、小中学校ではソフトボールが盛んであった。親はどの家庭でもそうであるように、僕にグローブを買ってくれたが、それは右利き用のものだった。もちろんそれには僕の左利きを矯正しようとする親の目論見があった。僕はボールを投げる時は左手を使うのが自然であり、ドッジボールなどの他の球技では左手で自然に球が投げられた。体力テストのボール投げも左手を使った。生来左利きの僕にとっては、右利き用のグローブは不自然で仕方がなく、いくら練習をしても一向に上手くならなかった。上手くなければ仲間外れにされてしまうのが子供の世界である。あの時代、野球ができないということは子供にとっては相当深刻な問題であった。もしも親が野球における左投げ左打ちの価値を理解して、子供の左利きを活かしてくれていたら、僕の人生は全く違ったものになっていたかもしれない。

小学生の時、親との意識の違いをあからさまに知った出来事があった。僕が「人は死んだらどうなるのか」と聞いた時、母は「人は死んだら土に帰る」と答えたことだ。僕にとっては全く見当違いの答えであった。僕が知りたかったのはもちろん「人はどこから来てどこに行くのか」という魂の問題であったのだが、母の意識がそこまで到底及んでいないことに気づき愕然としたのだ。どんな親も子供には立派な人物になって欲しいと願うものだが、この「立派な人物」像についても僕と僕の両親では全く違っていた。僕にとって「立派な人」とは釈迦やキリストのような偉人であったが、僕の親にとっては立身出世したこの世の成功者であった。この意識の違いは僕が大学生になって宗教の道に目覚めてから表面化した。母がよく口にしていた言葉は「君子危うきに近寄らず」であった。つまり「不義を見ても見ぬふりをせよ」「困っている人も助けるな」と言っているようで、僕は母の霊性の低さを軽蔑した。

中学、高校、浪人時代はもとより、大学生、社会人となってからも僕は孤独から逃れることはできなかった。理由ははっきりしている。孤独なのは霊性において似た魂に出会っていないからだ。僕が宗教を求めたのは真理に出会いたかったからだけではなく、霊性において同じレベルの友と出会いたかったからなのかもしれない。確かに信仰を共に分かつ仲間を得た時は喜びを感じた。しかし時間が経つにつれて我慢ができなくなってきた。あたかもたまり水の中で時を過ごしているような霊性の停滞を感じたからだ。信仰とは霊的停滞を守り続けることではないはずだ。それにしても頑なにそう信じる者たちが多すぎた。

妻を娶っても、子供ができて家族が増えても、残念ながら僕は「孤独」であることには変わりがなかった。(あくまでも内面の話であるが。)しかし「みにくいアヒルの子」はいつまでもひとりぼっちではなかったように、いつの日か本当のパートナー、本当の友人たちに出会えるときが来ることを僕は信じている。なぜなら、地上において「孤独」であることには理由があるのだから。そういう境地にたどり着いてから、僕は孤独を抱きしめることに決めた。イエスやブッダが、ベートーヴェンやガンジーが、それに名も無く地位も無く称賛もないが、誰かのために何かのために力を尽くしている偉大な魂たちが孤独であることを僕は知っているから。彼らは今もこの地球のどこかで与えられた使命を果たすために努力をし続けているに違いない。彼らと友でいられるために僕は孤独を甘受する。いつか肉体を脱いで霊界で出会えた時に僕たちは孤独ではなかったことを知るのだから。

最後にきてやっとこの記事の結論が言える。そう、だから僕たちはひとりぼっちではないのである。


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